【124】 
桑名 
六華苑諸戸屋敷
 その1          2007.06.29

 
 桑名での仕事が昼過ぎに終わったので、午後、桑名が生んだ豪商「諸戸清六」が残した邸宅「六華苑」を訪ねてみた。
 【写真をクリックしてみてください。多くは拡大写真にリンクしています。
  拡大しない写真もありますので、その場合は悪しからずご了承ください。】

    
 遠く飛騨大日岳に源を発して、白鳥・郡上八幡・美濃・岐阜と流れてきた長良川と、岐阜・福井県の境を画する両白山地の南限の山間いから流れ出て、「徳山ダム」の騒動を横に大垣・海津と濃尾平野の西南部を下ってきた揖斐川が合流するところ…、あと伊勢湾へと注ぐ河口部まで5Kmほどのところに、尾張宮宿(現名古屋市熱田区)から海路7里を渡って来た「東海道、七里の渡し」の桑名宿船着場がある。


       
「七里の渡し」の付近地図 →


            
は桑名城址(現、九華公園)、  は六華苑、 は諸戸屋敷

  

←「七里の渡し」、桑名宿船着場跡にある大鳥居


 旧桑名城址(現、九華公園)の外堀が揖斐川に出るところに大きな水門があり、その横に鳥居がある。
 この大鳥居は、旅の安全を祈って水神を祭ったものと思いきや、ここより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称されるもの。すなわち伊勢神宮の鳥居で、遷宮ごとに建て替えられているとか。
 
 
  
 中部山岳の木材と濃尾平野の米穀、そして東海道の賑わいが交わるこの地に、諸戸氏の邸宅は建てられている。
 「七里の渡し」の船着場から、揖斐川の堤防沿いに上流へ徒歩10分ほどのところだ。


 二代目諸戸清六の邸宅「六華苑」の表門(長屋門)→
 徒歩2分の隣接地に、駐車場がある。  


 ここ「六華苑」を造営した諸戸清六は、実は2代目清六である。明治39年、穀物取引で成功した初代清六(1846〜1906)の死去にともない、諸戸家の財産は2つに分けられて、家屋敷は次男清太が相続(西諸戸家)、家業は早稲田大学在学中であった四男清吾(1888〜1969)が呼び戻され、18歳で二代目清六を襲名して引き継ぐこととなった(東諸戸家)。
 家業をますますの隆盛に導いた二代目清六は、明治44年、結婚して23歳になっていたこの年、鹿鳴館などを担当して当時の建築界の重鎮であったコンドルに設計を依頼し、この新居を完成させたのである。
 諸戸家の歴史を紐解くには、初代清六を語らずして一歩を踏み出すことはできないが、初代についてはこの紀行文の
そのAに紹介することにして、まずは「六華苑」を探訪することにしよう。 




@ 駐車場 45台駐可
A 入り口(長屋門)
B レストラン
C 洋館
D 日本家屋
E 一番蔵
F 内玄関(受付・抹茶)
G 番蔵棟
H 高須御殿
I 離れ屋





  

← 門をくぐって石畳の道を行くと正面に洋館が見えてくる。
 右側の生垣の奥にはレストランがある。

 

← 道ばたの街灯もレトロだ。   

  













       洋館の全容が見えてきた。
        
圧倒的な存在感を持つ、4階建ての塔屋が印象的 →


 
  明治44年着工、大正2年に竣工した。  
前庭の芝生と飛び石
 
前庭の水路 植え込みに2羽のアゲハが 洋館の向こうに和風建築が
続いている。         
 
池のほとりには
見事な五葉松が数本…


 ← 洋館のベランダから、
  西へ続いている、和館の
  縁側をパチリ…。
   当時の洋館建てには、
  和館を結合させるのが普
  通であったとか。
  

 ここ六華苑の洋館・和館から成る建物は、和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化遺産である。桑名市は諸戸家から建物の寄贈を受け、敷地を買い上げて管理補修にあたり、1993(平成5)年から一般に開放している。1997(平成9)年、国の重要文化財(建造物)に指定されている。
 また、庭園は2001(平成13)年に国の名勝に指定されている。その庭園の鑑賞はのち程ということにして、建物の中に入ってみることにしよう。



 
建物への出入り口「内玄関」 

← 入ってすぐ左が受付・事務室、正面に抹茶をいただく
 休憩所がある。


  右手には陳列棚があって
  諸戸家所蔵の美術品が
  展示してある    →







 まずは右手(西側)の和館を拝観した。



 庭に面して、板廊下があり、その内に畳廊下、さらに内側に部屋が連なっている。  
























 廊下の突き当たり、西の端に土蔵(一番蔵)がしつらえられていた。
 この土蔵には、接客用調度品が収納されていたという。


     奥から、東のほうを振り返ったところ ↓
     廊下の向こうに、洋館の赤絨毯が見える。























 洋館へ…。


 玄関。 入り口のステンドグラスを通った光がやわらかい。


 入ってすぐ右手が 客間…。




















 明治の元勲、山県有朋や大隈重信もこの屋敷を訪れているから、このソファーへ腰掛けたことだろう。


 この客間が、各部屋の中でも一番凝った造りとなっている。
 天井の薔薇模様は、設計者のコンドルが好んで用いたデザインで、イギリス王室の象徴である薔薇を多用していることは、コンドルがイギリス人であることを改めて思わせる。


 暖炉はアールヌーボー様式を取り入れていて、屋根に突き出た煙突もなかなかにハイカラだ。
 カガミの位置が高いのは、欧米人サイズのものを直輸入して、そのまま使用しているからとか。
 センターテーブルは1910年イギリス製、応接セットは1880年デンマーク製とあるが、平成5年の改修時にアンティーク品を購入したもので、当時使用していたものではない。
               (解説書より)

     

     


      
客間から続いている食堂  →

  











← 食堂の窓から見える、前庭。





 
         階段を登って、2階へ… →




  2階は、書斎や寝室などプライベートな
  空間となっている。 


















← 書斎。 正面のドアからサンルームへ


 
 


  1階ベランダの上に同じ大きさで造られている
 このサンルームは、いっぱいの陽光を浴びながら
 庭を眺める、絶好の設計となってる。


  奥の右手は、寝室…。

この電燈は、当時のものとか。










     
サンルームから眺める前庭 ↓    
  





   

















   サンルームの西端から、和館と西奥の庭を↓




  洋館の東北に戻り、塔屋の2階窓から
  表門からのエントランスを望む   ↓















     館内のトイレは、創建当時から全て
     水洗であったという。     ↓
 


 




 水道設備もなかった当時、洋館の全てで水洗トイレを使用していたというのは驚きだが、ここには初代諸戸清六の偉業があった。
 桑名はもともと伊勢湾の上に揖斐・長良川が運んだ土砂が堆積してできた沖積平野であり、両河川は今も河口部へは海水が遡上している汽水河川であることからもうかがえるように、井戸水には塩分が含まれていた。
 良水を得ることは桑名の人々の悲願であったが、財を成した初代諸戸清六は独力で上水道の敷設を計画し、東方(ひがしがた)丘陵に地下水を集めた貯水池を造り、桑名の町内に上水道を給付したのである。
 この水道は明治37(1904)年に竣工し、町中に55箇所の共用水栓を設け、町民に無料で開放…。近代的な水道施設としては、全国で7番目のものだという。

桑名市東方に残る貯水池遺構
(桑名市パンフレットより)

 施設は、大正13(1924)年に桑名町に寄付され、昭和4(1929)年まで使用されていたが、その後、市域の拡大と共に水源地も新しく開発されてこの水道は廃止となり、設備はほとんど取り払われて、遺構として残存するのはこの煉瓦造りの貯水池のみとなった。
 

 それにしても、個人で水道施設を造り市民の生活に供するとは、諸戸清六の…明治の人の…豪快な胆力には恐れ入る。敬服の念のなかに、何かしら爽快さを覚える壮挙ではないか。  
  
  
 表へ出て、庭園を散策…。
 

← 池の対岸から


 池の南西からのショットがないので、
パンフの写真を拝借…。




















 前庭を横切って、建物の西側に回ってみた。
  
  
  西南部には山水の日本庭園がある。

                             


   和館の西の端、一番蔵の前に
   巨大な石の手水鉢が置かれていた。





 和館の西側を北へ回って、内庭を逍遥…。


  和館の裏手…、一番蔵の屋根が見える














  
   
 


 内庭は、南を和洋館、東を内玄関棟、北を四〜七番蔵と続く棟で囲まれた坪ノ内である。
 茶匠松尾宗吾の意匠による、茶庭の趣が濃く、中にある離れ屋は囲炉裏が切られ、水周りはステンレスの設備が整えられていたから、今も茶会などに活用されているのだろう。




 二番蔵と母屋の間の渡り廊下を横切って、建物の表へ出た。


← レストランの前に植えられたバラが、
 思い思いの花を咲かせていた。


 内玄関に入って、再度、受付へ行って申し込み、抹茶をいただいた。
 その席に座っておられた、「桑名歴史案内人」のカードを付けたご婦人に、諸戸家のさまざまな事柄を伺った。


 「『諸戸屋敷と庭園』へは、もういかれましたか?」と尋ねられ、本日はここ六華苑と九華公園ぐらいを訪ねてみようかと思っていた僕は、「諸戸屋敷…?」と何の予備知識もない。
 「ここ六華苑は二代目が建てられたお家ですが、初代の清六さんが建てられた『諸戸屋敷』がこの裏にあります。今、6月中は庭園も一般公開していますから、ぜひご覧になっていってください。一見の価値は十分にありますよ」と教えていただいた。


 予定していたわけでなく、ひょんなきっかけで訪れることになった諸戸屋敷…。その旧宅で、僕は、初代の並外れた見識と規格外れの豪放さを目の当たりにすることになるのだが、その報告はまた項を改めてということで…。
       
 
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